平岡頼勝


禅台寺

可児市下恵土



ここ禅台寺境内の一角に石見守勝頼の葬られた墓がある。
平岡石見守頼勝は、父(溝杭頼俊)とともに諸国を流浪し、
小早川秀秋に仕えてその家老となる。関ヶ原合戦のとき、
頼勝は黒田如水(官兵衛)の娘を妻としていたので、
如水の子長政と謀り、西軍に属していた秀秋を東軍に内通させた。
秀秋は、西軍として松尾山に陣した。正午頃になっても戦いは
勝負がつかなかったため、東軍が秀秋陣に対し銃撃をして
西軍を攻めるように促した。これにより秀秋は、西軍の陣へ
突入し、東軍の大勝利となった。戦後の論功行賞により、
頼勝は、秀秋により2万ん石(備前小島)を与えられた。
まもなく讒言にあって、再び流浪の身となったが、徳川家康は、
その前功を認めて、慶長9年(1604)8月晦日、美濃国内の可児郡など
1万270石余りを与え、頼勝は、徳野村に屋敷を構えて住んだ。
慶長12年(1607)48歳で死去し、禅台寺に葬られた。

看板では、頼勝は黒田如水(官兵衛)の娘を妻と
するとあるが、黒田如水(官兵衛)の姪のようだ。






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