豊臣秀吉・フォトストーリー

1589年5月27日鶴松誕生。

小田原城跡
小田原城跡

小田原城
小田原城
神奈川県小田原市城内
1590年4月小田原城を包囲する。
北條早雲公像
北條早雲公像
なお、小田原駅西口には 北條早雲公像がある。

1591年1月豊臣秀長が没す。

1591年2月28日千利休を切腹させる。

1591年8月5日鶴松が没す。

1591年9月16日諸大名に朝鮮出兵の準備を命ず。

1591年10月肥前・名護屋の築城を開始する。

1591年12月18日関白を辞任する。

1591年12月28日豊臣秀次が新関白となる。
豊臣秀次貴船社
貴船社
愛知県海部郡美和町乙之子屋敷

1592年3月文禄の役が開始。

豊臣秀吉母宅址
豊臣秀吉母宅址


名古屋市昭和区御器所3


1592年7月大政所没す。



豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地
豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地
大阪市中央区大阪城
1593年8月3日秀頼が誕生する。

1595年7月15日豊臣秀次を切腹させる。

1596年11月15日26聖人をはりつけにする。

1597年2月26日慶長の役が開始される。

内々神社

春日井市内津町
慶長2年(1597)には、豊臣秀吉が朝鮮出兵の
折、戦勝を祈願して社頭の大杉7本を伐採して
帆柱とし、凱旋後お礼に社殿を造営したという。


耳塚

京都市東山区
耳塚
この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉が、
さらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島
に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、
壬辰・丁酉の倭乱、1592〜1598年)にかかる遺跡である。
秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである
首級のかわりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬
にして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの
地に埋められ、供養の儀がもたれたという。
「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに京都に
現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に建つ
五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の
古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの
創建と想われる。秀吉が惹き起こしたこの戦争は、
朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退
に終ったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱
下に被った朝鮮民衆の受難を、いまに伝えている。




1598年春醍醐の花見


三宝院庭園は、慶長3年(1598)年
豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して、
自ら基本設計した庭である。



五重塔(国宝)

京都市伏見区醍醐東大路町

五重塔(国宝)
醍醐天皇の菩提を弔うため、第一皇子・朱雀
天皇が承平6(936)に着工し、第二皇子村上
天皇の天暦5(951)に完成した。諸層の内部には
両界曼荼羅や真言八祖が描かれている。高さは
約38mで屋根の上の相輪は約13mあり、相輪が
塔の三分の一を占め、安定感を与えている。
パンフレットより

1598年8月18日豊臣秀吉没す。


辞世の歌                    
露と落ち露と消えにし我が身かな
               なにわのことも夢のまた夢




戻る