結城秀康



福井市

結城秀康公
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、越前68万石の
大名となった結城秀康公(徳川家康の次男)は、
翌6年に北庄(後の福井)に入り、新しい城の建設
と、柴田勝家にはじまる城下町と大改造に着手した。
多くの民の力と汗に支えられ、およそ6年の歳月を
かけて完成した城下は、都市として福井の原形
をかたちづくり、今日の福井発展の礎となった。

福井城下の歴史


越前福井藩祖である結城秀康は、天正2年(1574)
徳川家康の次男として生れた。江戸幕府2代将軍
秀忠の兄である。天正12年、豊臣秀吉の養子と
なり、その後、関東の武家の名門である結城氏
を継いだ。秀康の越前入封は、外様大名である
加賀前田家を押さえる目的であったと考えられる。
秀康による北ノ庄の改修は、吉野川の河道を
利用した百間堀の掘削や高さ約40mの天守閣の
造営、城下町の拡大など大規模なものであった。
慶長12年(1607)秀康は34歳で病没したが、その後
も、越前松平家は御三家に次ぐ家格を保ち、中でも
第16代藩主松平慶永(春嶽)は、幕末の困難な時局
にあって政事総裁職を務めるなど明君として名高い。

此付近福井藩邸跡

京都市中京区堀川通二条城前

福井藩は、慶長5年(1600)徳川家康の二男結城秀康
が封ぜられたのに始まる親藩の雄藩である。




福井市



高野山

右、結城秀康の墓。左は、母・長勝院の墓。

中村家住宅

浜松市西区雄踏町宇布見

中村氏は今川家の代官として浜名湖の軍船を支配
していたが、永禄11年(1568)に徳川家康が遠江へ
入国すると、18代目の正吉は船を迎えるなどの御用
を果たし)、以後は徳川家に仕えて、今切軍船兵糧
奉行や代官を勤めた。中村屋敷(浜松市雄踏町宇
布見)において天正2年(1574)2月8日に徳川家康の
側室お万の方が家康の二男である結城秀康を出産。

胞衣塚


天正2年(1574)2月8日、徳川家康の次男(幼名を
於義丸、後の結城秀康)が、この中村家で生まれた。
母親はお万の方で、出産時の胞衣(後産)を埋めた
のが胞衣塚である。塚上の梅は徳川家康のお手植
えと伝えられ、数代を経ている。明治17年(1884)に
越前松平一門が、塚の由来を記した胞衣塚碑を建立。

気賀宿本陣中村家跡

浜松市細江町気賀

気賀は、天正15年(1587)本多作左衛門によって宿
と定められ、東海道本坂通(姫街道)でもっとも重要
な宿場となり、本陣は中村家がつとめました。
宇布見村(現在の雄踏町 )中村家は、徳川家康の
次男秀康が生まれた家としと知られています。中村家
の次男与太夫は、本多作左衛門の世話で気賀の代官
となり、これが後の気賀宿本陣中村家となりました。
中村家は代々与太夫を名のり本陣として栄えました。





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