蜂須賀小六
蜂須賀家屋敷跡(宮後城跡)
愛知県江南市宮後町
宮後八幡宮の境内を含め、東西60間・南北80間(1間は約1.8m)
という広大な屋敷であった。
この屋敷は旧宮後城で土岐氏が(1394〜1398)のころ尾張を治める
要地として安井氏が守っていた城であった。
天文年間の後半、蜂須賀小六の母が安井氏の娘であったので、
故あって母の在所に住むこととなり、木曽川の川並を支配した。
尾張国地名考に宮後村は「この村に蜂須賀小六の屋敷跡あり」
と記し、昭和43年頃までは、「小六屋敷」といわれ、外堀・古井戸も
残っていたが、都市化の波に抗しきれずその跡もない。
今は県道江南・犬山線沿いに「蜂須賀家政公生誕地」という石碑が
残っているのみである。
蜂須賀小六・家政父子の合同墓
愛知県海部郡美和町蜂須賀
蓮華寺の裏山にある。
蜂須賀氏のほか、戦国時代の武将浅野長政は安井弥兵衛の長子と
してここで生まれているという。
後に叔父の浅野又右衛門の養子となり、ねね(秀吉の室)の妹やや
を妻とした。
土岐氏と安井氏が関係があり、安井氏と蜂須賀家・浅野家が関係が
あるというこは。土岐氏と蜂須賀家・浅野家とのつながりがあった
に違いない。
1585年、蜂須賀小六の嫡子・家正、徳島城主(17万石)となる。
関ヶ原になって、家政は阿波一国を豊臣家に返上し、
高野山にのぼり、子・至鎮は東軍に参加するのである。
戦後、至鎮にあらためて、阿波一国が与えられている。
以後徳島城主として明治に至っている。
加藤家・福島家が改易となっているが、豊臣家の恩顧でありながらも、
蜂須賀家・浅野家は、関ヶ原の戦い以後版籍奉還まで生き延びている。
土岐氏とつながりがあったからだろうか。
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