五箇山


塩硝の館

富山県南砺市菅沼



戦国時代から江戸時代には、塩硝製造の歴史
がある。石山合戦(1570〜1580)の織田勢との
戦いにも五箇山の塩硝が使われた。塩硝は
火薬の原料である。石山合戦の際には塩硝を
本願寺に送る役割を果たしたといわれる。







加賀藩祖、前田利家公は、織田信長に仕え、有名
な長篠合戦では、鉄砲大将の1人として参戦し、
武田軍と戦い鉄砲の威力を目の当たりにした武将
である。後、旧知行と合わせ江州長浜で一万石の
領主となった時、近くの近江の国、国友村の鉄砲
鍛治と、加賀百万石の城主となった時には、おそ
らく多数の鉄砲を所有していたことであろう。加えて
当地五箇山地方は、加賀藩領として古くは石山合戦
時代より塩硝(硝石)製造地であったので、加賀藩
はまさに鬼に金棒の軍備であった。当地西赤尾
関所にも警備のための配銃があったと伝えられる。







鉄砲の歴史


鉄砲の歴史
天文12年(1543)ポルトガル人を乗せた中国船が
暴風の為、種子島(鹿児島県)の漂着し鉄砲を
伝えた。そして火薬調合法を篠川小四郎に学ばせ、
1545年数十挺の鉄砲が完成された。火縄銃は、
和泉の堺を中心とする地域・紀州の根来・雑賀・近江
の国友村などで生産された。当地の銃は、現代の
ものと比べ弾薬の装填に時間がかかり20秒位に
1発撃つのが限界だった。その間に人なら100m、
馬なら200m位走ることが出来た。また、鉄砲の
弾を防ぐ盾として丸竹が使われていたので、竹束を
かつぐ足軽はあちらこちらでみかけられた。長篠の
合戦以前は鉄砲はそれほど重要視されず、その訳は
やはり弾薬の装填に時間がかかり過ぎることだった。
しかし、織田信長が3000挺余りの鉄砲をたずさえた
鉄砲隊を3列に配備し、前列・中列・後列と順次に
撃ち弾を込め構えるという戦法で、装填時間を問題
をなくした為にその後の戦いは大きく変わり、銃の
役割は重要となった。それから鉄砲が多く使われ
はじめてからは防具や鎧は変わっていった。

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