細川忠興夫人隠棲地


細川忠興夫人隠棲地

丹後市弥栄町字須川

忠興と玉の婚礼から1年後の天正7年7月、明智軍団
は八上城を陥して、丹後・丹波の平定に成功。光秀
は丹波亀山城を信長から与えられ、翌8年に、藤孝・
忠興父子は丹後に12万石を拝領して宮津城に入る。
天正10年6月3日、光秀の組下として中国出陣を命
じられた藤孝・忠興父子が、宮津城を出立しようとし
ていたところに飛脚がやってきた。2日早暁、光秀が
本能寺に急襲したという。   細川ガラシャのすべて
(新人物往来社)より


玉は宮津城から船で日置に至り、下世屋・上世屋・
駒倉をヘディング味土野に着いた。細川ガラシャの
すべて(新人物往来社)より

細川忠興とガラシャの像

勝竜寺城公園内


勘違いしていた。勝竜寺城から細川忠興夫人隠棲地
(丹後市弥栄町字須川)はかなりある。しかし、
宮津城・光秀の首塚がある宮津市からは、
そんなに離れてはいない。宮津城のことを
理解しているかどうかによって細川氏への
印象が180度変わってしまう。勘違いしいた。



宮津市字喜多

盛林寺
裏山の墓地の明智光秀の宝篋印塔は、細川忠興の
妻玉(光秀の娘)によって建てられたことを伝えてい
る。これも細川氏との深い関係を示すものである。

光秀の首塚



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