細川ガラシャ

明智光秀と娘
 明智落城による逃亡、そして惨憺たる越前時代に三女として生まれた玉子は、幼少の
頃から母の苦労と父の汗を見て育ちます。清貧の中で両親の夫婦愛を見つめ、そして親
の訓育をじかに受けて成長していきます。

                 細川ガラシャ生誕の地
          
                 
福井市東大味町(明智神社)

その玉子が、近江の坂本(大津市)城主だった父光秀の盟友細川藤孝の嫡男忠興と結婚
したのは、天正六(1578)年十六歳の秋であります。

                     勝竜寺城
         
                  
  京都府長岡京市
           
勝竜寺城の前の通りはガラシャ通りと名づけられている。

 美貌をうたわれた玉子の花嫁行列は、坂本から京に入るや、沿道の見物衆を分けて、
京の西郊、勝竜寺城(京都府長岡京市)入ります。

              細川忠興とガラシャの像
         
                
  勝竜寺城公園内

 この頃、すでに二人の姉は、摂津伊丹城主の嫡男と近江高島城主に、それぞれ嫁い
でいました。  ところが、その四年後、思わぬ事態が起こった。父光秀が主君信長を京の
本能寺に討つという事件であります。そして、それから十二日後の天正十(1582)年六月
十四日、光秀は羽柴秀吉らの急襲にあい、山崎の戦いで敗死しました。

                  山崎合戦之地
         
                 
京都府乙訓郡大山崎町

 このときすでに二人の男子をもうけていながら、玉子はそれから間もなく舅の藤孝、夫
の忠興によって宮津城(京都府宮津市)から丹後半島の山中、味土野というところに移さ
れ、幽閉されることになりました。
 当時の高家や武将間の結婚は今と違い、すべて政略含みでありました。つまり女性は
子を生むだけでなく、実家と婚家の連携使節でもありました。だから嫁の実家が衰えたり、
まして逆臣の汚名を着て滅亡するということになるとどんな仕打ちを受けても仕方がなかっ
たのです。 現に上の姉は母熈子と同じく坂本落城の中で死に、次の姉は近江の高島城
で殺されています。そうした実家・明智一族の不幸を玉子は味土野の幽閉地でどんな思い
で受け止めたのだろうか。
 貧しかった越前の頃、髪を売って夫を助けた母。そして三人の娘を育て、嫁がせ、これか
ら安穏な老後を送ろうとしていた母は、父の敗北に殉ずるように落城の火の中で自刃してし
まった。その母が今しきりと懐かしく思い出されます。
 だからといって父光秀を怨もうとは思はない。少なくとも玉子の知っている父は、人から誹
謗されるような人ではなく、神仏を尊崇し、部下をいたわり、それに誰よりも家族を愛した人
であったからです。その父が信長を討つには、それだけの理由があるはずです。
 その理由を誰よりも知っていたのは父の盟友である舅の藤孝であり、夫の忠興であったの
です。にもかかわらず、舅と夫は父を裏切り、秀吉軍について父を追い詰め敗死させたので
す。
 玉子はそんな舅と夫を怨み、父と母の死に哭き、二人の幼子を思って苦しみます。
 ところが、ここで清原という名の持女によって、玉子の心は少しずつ和らいでいったのです。
「どうしてそなたはそんな穏やかな顔をしていられるのです。」という玉子に 「天にまします
主が見守ってくださっていますから。」という答えがもどりました。清原は京にいた頃、安土の
セミナリオに出入りし、切支丹の教えに触れていたのです。

                   細川ガラシャ像
          
                        大阪市中央区玉造

              大阪カテドラル聖マリア大聖堂玉造教会(旧細川邸に隣接)

           
ガラシャ夫人像の左側には、高山右近の像がある。

          
                   大阪カテドラル聖マリア大聖堂玉造教会

(そうか、デウスの教えとはそんなに人の苦しみを解き放ってくれるものなのか・・・・・・)
 秀吉のはからいで味土野の幽閉を解かれた玉子は、子どものいる大阪玉造の細川屋敷
に入りました。しかし、二年余の隔離で、子どもたちが母の顔を忘れていたことが玉子を悲し
ませます。それに夫忠興は以前にも増して熱愛してくれるのであるが、玉子の外歩きを許さ
ないという偏執的な男になっていました。
 そんなわけで、教会へ行こうにも出られない。ところが、秀吉の九州征伐が始まり、忠興
が従軍することになると、その留守を見計らって清原の手引きで教会を訪れたのです。
 初めて見る美しい聖堂、そして宣教師の説教に深い感動を受けた玉子は、それから伝道
の手引書「こんてむつすむん地」の勉強を始めました。そして、とうとう清原マリアの手を通し
て受洗し、ガラシャの洗礼名を名乗ることになります。
 しかし、九州から凱旋した忠興はこれを許そうとはしませんでした。そればかりか、切支丹
の侍女たちを極刑に処し、玉子にも棄教を迫ったのです。しかし、こればかりは玉子も抵抗し
たのです。
忠興とて、秀吉の切支丹禁令を気にしてのことで、すでにこの頃、宣教師や切支丹大名高山
右近の国外追放や長崎における切支丹処刑が行われていたからです。
 ところがその秀吉が死に、切支丹弾圧の嵐もおさまりました。この秀吉の死を喜んだのはガ
ラシャや切支丹ばかりではなく、実は忠興もその一人であったのです。
 というのは、切支丹だからというより、女好きの秀吉がガラシャの美貌に目をつけていたから
であります。七年前の天正十年、光秀を山崎の戦いで討った秀吉は、いつ忠興に玉子の召し
出しを言い出すか分からなかったのです。そのためにも忠興は父藤孝の言に従い、玉子を味
土野に移さざるを得なかったのです。

                  細川忠興夫人隠棲地
           
                    丹後市弥栄町字須川

                  細川ガラシャ(1563〜1600)
           安土桃山時代の代表的なキリシタン女性。細川忠興
           夫人。永禄6年(1563)明智光秀の次女として生まれ
           る。本名玉子。ガラシュGraciaは霊名。天正6年(1578)
           織田信長の媒酌により、細川藤孝の子息忠興と結婚し、
           細川氏の居城山城勝竜寺城(京都府長岡京市)に
           輿入れ、のち丹後宮津城に住む。天正10年(1582)
           本能寺の変の後にこの地に2年間隠棲する。

           

 それから二年後、秀吉の許しで味土野から大阪屋敷へ呼び寄せたが、偏執とまで思われる
ほど玉子を外へ出さなかったのは、秀吉の毒手を恐れたからです。
 その秀吉が亡くなったのであるから、危難は去ったかに思われましたが、ここでまた一大事
変が起こります。今度は、秀吉側近の石田三成と徳川家康の対立です。
 その頃、細川家では三男の忠利を家康のもとに送っていました。つまり人質であります。その
家康が三成を挑発して兵を挙げました。いわば関ヶ原の戦いの前哨戦であります。その家康に
従って征く忠興は、三成がガラシャを人質に取ることを恐れて、「大阪城に入るな」と言い残しま
した。
                       越中井
           
               
      大阪市中央区玉造
             
1600年、忠興出陣中、石田三成が、大阪城中に
                人質にしようとしたが、ガラシャ夫人は聞き入れず、三成
                に取り囲まれ、ぜひもなく家来に首を打たせ屋敷に火を
                放ちいさぎよく火中に果てる。
                この越中井はその屋敷の台所にあったと古くから伝え
                られている。
                大阪城からは数百mの所にある。


 その言葉通り、三成の兵五百が細川屋敷を取り囲み、ガラシャの引き渡しを要求してきたので
す。
 三成方の兵五百に囲まれた時は、さすがに慄然としたが、このことがあることを覚悟していた
ガラシャは白無垢に着替え、奥の一室にこもったのです。
 ガラシャの最期は切支丹殉教の栄光とも思えるが、華のようにパッと咲き散った父光秀の最
期を知った以後、ガラシャ自らもその゛時゛を求め続けていたのでしょうか。

 散りぬべき時知りてこそ世の中の
                花も花なれ人も人なれ

                       越中井
          
                        大阪市中央区玉造

という辞世の歌がそのことをもの語っているように思えるのです。

  
この句は、旧熊本藩主細川家18代の末裔にあたる細川護熙首相が1994年4月
 佐川急便グループからの1億円の資金流入問題に端を発し国会が空転した責任を
 取る形で首相退陣した時引用した事でも知られる。


 小笠原少斎に胸を突かせた壮絶な死は、かえって三成方に衝撃を与え、以後、人質作戦を取
り止めさせることになりました。

                    細川ガラシャの墓
           

                 
           
                 大阪市東淀川区東中島5(崇禅寺)

           ちなみにガラシャの墓の右隣には室町幕府六代将軍
           足利義教の墓がある。

 こうしたガラシャの犠牲によって、忠興はじめ徳川軍は後顧の憂いなく戦いを進め、関ヶ原の
戦いに大勝をおさめることができたのです。後年、徳川八代将軍はこのことを、「徳川家あるのは
関ヶ原の一戦にあり。その勝利は明智氏(ガラシャ)の義死にあずかっている」と明言したくらい
です。

 よく山内一豊の妻と比較されるが、ガラシャも一豊の妻と同じように生きのびることは出来たはずだが、
明智光秀の娘としての生き方をしたとしか思えない。


                  細川忠興・ガラシャの墓
           
               京都市北区紫野大徳寺町(高桐院)

           三斎公及びガラシャ夫人の墓石は、生前愛好した
           石灯篭をもってそれに当てた。
           細川家の墓所の中にこの鎌倉時代の美しい灯篭
           墓石は、苔を褥に静かに据わっている。
           これはもと利休秘蔵の天下一の称ある灯篭であった
           が、豊太閤と三斎公の両雄から請われて、利休は
           わざと裏面三分の一を欠き、疵物と称して秀吉の請
           を退けた。のちに利休割腹の際、あらためて三斎公
           に遺贈したもので無双という銘を持ちまた別名を
           欠灯篭ともいう。

 細川家においても、ガラシャの死はお家安泰の礎石として称えられ、熊本にある細川家の菩提
寺泰勝寺では、領主並みに篤くまつられています。

      
        中島道子 死を賭して夫と子を守った「細川ガラシャ」参照




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