桶狭間古戦場2


桶狭間古戦場公園

名古屋市緑区桶狭間北3丁目

桶狭間古戦場の碑




桶狭間古戦場田楽坪の碑
この碑は桶狭間合戦の折、今川軍の先陣松井左衛門
佐宗信(遠州二俣城主)子孫である松井石根氏が
昭和8年5月に桶狭間古戦場跡を訪ねられた折、揮毫
されたものであり、同年8月、郷土史家梶尾馬子作氏
により建碑されたものである。

桶狭間古戦場の碑


桶狭間古戦場の碑
この碑は、先年鞍流瀬川より発見されたもので、
正面は桶狭間古戦場、裏面は文化13年丙子五月
建とあるが、途中で欠損しており、以下どのような
文字が刻まれていたのか判明しないが、この碑が
桶狭間合戦の激戦地といわれる田楽坪で発見
されており、案ずるに義元公最期の地を示したもので
あったか或いは戦の中心地であったことを標示
したものであったか定かではない。

今川義元公水汲みの泉


今川義元公水汲みの泉
今川軍の本陣が田楽坪に置かれ、義元公が休息
の下りにこの泉に水を汲み暑さをしのがれたと云う。
又、義元公が田楽坪で織田軍の急襲にあい、討死
され、首級がこの泉で清められたとか。
「義元公首洗い泉」とも呼ばれている。
この泉に沿って旧刈谷街道が鳴海方面に通じているが、
その昔、泉に水汲み用の桶が入れてあり、湧き出る水勢
で、桶がクルクル廻わり、これが旅人の興をそへ、
桶回る間の一服ともてはやされ、誰れ云うとなく、
桶狭間と呼ぶようになったとか。

今川義元戦死之地







駿公墓碣


今川義元馬繋ぎのねず塚


「今川義元馬繋ぎのねず塚」
この馬繋ぎのねず塚付近が本陣跡であり、義元公
終焉の地であると古くから云い伝えており、義元公
の愛馬を繋いだねずの枯木が残っている。

今川義元公本陣跡
義元公が京都に進軍の途路、この地田楽坪(当時この付近
一帯は小松原の広い丘陵地であった)に本陣の休養を命じ、自ら
大高・鳴海方面の戦況を質し敵将の首実験を行われた。


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