光秀は、僕を救いにきてくれた!


光秀と秀吉が同じことをしても、秀吉は許され、光秀はしうちをうけていたのかも
しれません。

織田信長の心の根は、光秀に会う以前からあった。

信長の教育係は次席家老平手政秀であった。政秀は茶湯や連歌などを
嗜む、インテリで粋人の老人である。しかし信長は、政秀の正反対の行動
をとっている。
行儀もひどく、領民も「大うつけ」と嘆いている。
政秀は、信長を根気よく諭し諌めてきたが、信秀の死後、織田家の前途を
悲観して自刃。(自刃の理由は諸説ある。)

               明智光秀像
      
              
滋賀県大津市下坂本3

光秀が信長の心の傷を明確にし、信長の心の痛みを癒すために登場した。
光秀でなくても、信長の心には、光秀タイプの人が必要だった。


本当は、光秀につらくあたりはじめた頃こそ、信長が、歴史とか伝統に深い関心を
持ちながら国を治めるための正統的な姿勢を学ぶ時期だったのではないか。

光秀だったら快く教えてくれたに違いない。

そのことは、信長が一番よく分かっていたのかもしれません。だからこそ光秀につらく
あたってしまった。

今、信長は「光秀は、僕を救いにきてくれたんだ!」と、思っているのかもしれない。



うまくまとまっていませんので、このあたりのことが詳しく知りたい方は、「30日間で、どんな人
でもあなたの味方にする方法」(チャック・スペザーノ著)を参考にしてください。

                   

 斉藤道三の妻小見の方の甥であった光秀は、道三から古典的な教養の面を受け継ぎ、
そして歴史とか伝統とかいうものに深い関心を持ちながら、一方では天下に対する野望を
抱いています。光秀のその伝統に依拠する姿勢が正統的であるがゆえに、そこに悲劇が
はらまれていたともいえるかもしれません。

                   斎藤道三の墓

         
                    
岐阜市道三町

 
光秀が道三のその一方の分身であるのに対して、いま一つの分身があります。それが
娘婿の信長であります。


信長には道三の戦争や政治における奇略と決断が受け継がれていきます。
それが一つの独創性となり、歴史や伝統を打ち破る力ともなっていきます。その
個性は道三以上に強烈であるかもしれません。信長もまた天下を夢に見ているのでありま
す。道三を中心として、信長と光秀の因縁を感じざるを得ません。




                   戻る