枇杷島橋



名古屋市西区枇杷島

信長や秀吉が遊んだ庄内川
庄内川左岸には三つの大きな河原があった。
成願寺河原・名塚河原とここ枇杷島河原である。
枇杷島河原はこのあたりから下流、中村区稲葉地
にかけて広がる大きな河原であった。清洲(当時
は清須)や名古屋(当時は那古野)を始め、近在
で河原といえば、枇杷島河原のことであったという。
茶せん髷に、腰へいろいろなものをぶら下げた
吉法師時代の信長は、近在の子供達とこの河原
でよく遊んだという。そのなかに中村の稚児集団
があり、日吉丸(後の秀吉)もその集団の中にい
た。彼等は川狩などをして魚をとり、枇杷島や
清洲、津島まで売りに行ったという




枇杷島橋
枇杷島橋は、美濃路と庄内川の交差するこのあたり
に架けられたが、その年は慶長13年(1608)とするも
のと元和8年(1622)とするものの二説がある。
この橋について、「尾張名所図会」は、「国中第一の
大橋にして、東西に二橋を架せり。大橋長さ72間、
小橋27間、杭・桁・梁・高欄其他に至るまで、更に
他の雑木を交へず、みな檜材を用ひて、結構の
善美、人の目を驚せり。又両橋の間に中島とて
南北六町ばかり川へ墾出ず。」と記している。

美濃路
美濃路は、江戸時代に東海道と中山道を結ぶ
脇街道として発達したものである。
その経路は宮の宿で東海道と分かれて名古屋・
清須・稲葉・萩原・起の各宿を経て美濃国へ入り、
墨俣・大垣を経由して垂井宿で中山道と合流した。
その里程は14里24町15間(約57q)といわれ、
五街道とともに道中奉行管轄の主要な街道であり、
大名行列、朝鮮通信使、琉球王使などのほか、
多くの庶民も往来し、にぎわいのある街道であった。

師長伝説
治承3年(1179)時の太政大臣藤原師長は、
平清盛のため尾張国井戸田に流された。師長は村長
横江氏の娘を寵愛したが、後に赦されて都に帰るとき、
形見に守本尊の薬師如来と白菊の琵琶を残した。
しかし、娘は別れを悲しみ、ついに世をはかなみ、「
四つの緒の 調べも絶えて 三瀬川 沈み果てぬと 君
につたへよ」と琵琶の甲に書きつけ、入水した。
その跡を琵琶池といい、処の者が亡骸と琵琶とを埋め、
それより枇杷島と名づくという伝承がある。


清音寺


曹洞宗。治承3年(1179)時の太政大臣藤原師長は、
平清盛のため尾張国井戸田に流された。師長は村長
横江氏の娘を寵愛したが、後に赦されて都に帰るとき、
形見に守本尊の薬師如来と白菊の琵琶を残した。しかし、
娘は別れを悲しみ、ここで身を投じたという。その後この地
を枇杷島と名付け、娘の菩提を弔うためこの寺を建立した。
寺号の清音寺は娘の法号清音院からとられている。






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