飛鳥時代
難波宮跡

大阪市中央区法円坂


近江神宮

滋賀県大津市
大化改新を行なわれた天智天皇の都、近江大津京 ゆかりの地に鎮座し、天智天皇を御祭神とする勅祭社。
壬申の乱
関ヶ原は、徳川家康の900年前にも天下分け目の決戦
の舞台になっていた。いわゆる壬申の乱である。
竹取物語は壬申の乱と関わりがある。
かぐや姫に五人の貴公子が求婚しているが、
@石作の皇子(丹比嶋真人)
A庫持の皇子(藤原不比等)
B石上麻呂足(石上麻呂)
C阿部御主人(安倍御主人)
D大伴御行(大伴御行)
これら五人の求婚者は、壬申の乱で大海人皇子側と
して活躍した人たちである。
Cは安倍晴明の先祖である。
不破関

岐阜県不破郡関ヶ原町
古代の一大争乱、壬申の乱

671年、天智天皇が没した後、実子である大友皇子
を立てる近江朝廷側と、皇太子・大海人皇子との関
係はいよいよ危険な状態となりました。翌年、意を
決した大海人皇子は、自らの湯沐邑(私領地)があっ
たこと、武略にすぐれていた美濃の豪族村国連男依
などが役人として仕え、在地の豪族や農民の支持が
期待できたことなどを理由に、美濃を挙兵の本拠地
に選び、密使を美濃に送りました。「急いで不破の道
をふさげ」この命令が、この戦の勝者を決めることに
なりました。玉倉部(玉)付近で最初の戦いの火蓋が
切られると、2軍に編成された大海人軍に近江軍は
しだいに押されていき、ついに陥落。大友皇子は自ら
命を絶って乱は終りました。
大友皇子の御首級を葬った地に自害峰の三本杉は
目印として植えられたと伝えられ、根回り6m、高さ21m
で、一ヶ所より杉が3本生えています。
集落の人たちも藤古川をはさんで東西陣営それぞれ
藤古川


に支援し、合戦後、松尾の集落には天武天皇をまつ
って井上神社、藤下、山中の集落の人たちは弘文天
皇をまつった若宮神社、それぞれ集落の氏神として
います。
西美濃歴史街道地図より
不破関関庁跡と兜掛石

この辺りに中心建物があったとされ、関内の中央を
東西に東山道が通り、その北側の瓦屋根の塀で囲
まれた約1町(108m)四方の関庁が設けられ、内部
には庁舎、官舎、雑舎等が建ち並び、周辺土塁内
には兵舎・食料庫・兵庫・望楼等々が建っていました。
ここに祀られている石は、壬申の乱の時、天皇天武
が兜を掛けた石と伝えられ、左斜めうしろには同天
皇使用の沓脱石があります。
沓脱石

徳川家康最初陣跡

岐阜県不破郡関ヶ原町

岐阜県不破郡関ヶ原町
1600年9月15日未明、家康配下の3万余は、ここ桃
配山周辺に陣取り、家康はこの山頂において、大馬
印を高々と掲げ、指揮にあたる。
最後の陣地に移るまで、各陣営からの報告をもとに、
しきりと作戦会議が開かれたと思われる。
桃配山は、壬申の乱の時、天武天皇が兵士を励ます
ために桃を配ったところだという。
徳川家康が縁起をかついでこの桃配山に陣をおいた
といわれる。
自害峰の三本杉

不破郡関ヶ原町藤下
自害峰
壬申の乱に敗れた弘文天皇は、大津の山前で自害
されました。
東軍の武将村国男依は、天皇の首をいただき不破
の野上に帰り、天武天皇の首実検のあと、この丘陵
に葬ったと伝えられています。
自害峯の三本杉
壬申の乱(672)は天智天皇の子・大友皇子と同天
皇の実子大海人皇子との間で起きた皇位継承争い
でした。
その戦はこの辺りから始まり、その後近江の瀬田で、
大海人軍は大友軍を破ったのです。
ここは自害された大友皇子の頭が葬られていると伝
えられ、弘文天皇御陵候補地です。三本杉がそのし
るしとなっています。

現在の自害峰からの眺め
黒血川

岐阜県不破郡関ヶ原町
黒血川
壬申の乱(672)で、ここ山中の地では両軍初の衝
突が起きています。
7月始め大友軍は精兵を放って、玉倉部邑(関ヶ原
町玉)を経て大海人軍の側面を衝く急襲戦法に出て
きました。
しかし、大海人軍はこれを撃退、その後この不破道
を通って近江へと出撃していったのです。
この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒
く染めたことから、この名が付き、この時の凄い様子
を今に伝えています。この川は青野ヶ原や関ヶ原の
戦い等、古来軍事上しばしば利用されてきました。
鈴鹿関


三重県亀山市関町
藤原宮跡

奈良県橿原市高殿町
藤原京は、持統天皇の8年(694)から和銅3年(710)
まで、持統・文武・元明天皇三代にわたる都。藤原宮
はその中心部にあたり、現在の皇居と国会議事堂、
及び霞ヶ関の官庁街とを一ヶ所に集めたような所。
大きさは約900m四方、まわりを大垣(高い塀)と壕
で囲み、各面に三ヶ所ずつ門が開く。中には、天皇
が住む内裏、政治や儀式を行う台極殿と朝堂院、
そして、役所の建物などが建ち並んでいた。

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