浅井長政


長政とお市の方

滋賀県東浅井郡湖北町・河毛駅前
1567年信長の妹・於市は、織田家と浅井家の同盟のため、
浅井長政に嫁ぐ。                


お市の里・滋賀県東浅井郡浅井町

浅井長政像(浅井氏宅址)

愛知県春日井市牛山町(名鉄間内駅前)
浅井長政は朝倉義景との盟約により織田信長との
戦いで1573年8月28日敗れ、自害する。      
長政の側室八重の方は、七郎を連れ美濃にのがれ
る。1592年七郎20才も時、この地牛山村(愛知県
春日井市牛山町)に移り、1650年に没する。    

1573年8月26日小谷城(滋賀県東浅井郡湖北町)を落とし、
浅井長政を討つ。    

浅井長政自刃之地

小谷城・赤尾屋敷跡にて
滋賀県東浅井郡湖北町伊部

   
   小谷城跡碑        山王丸跡からの眺め
頂上の山王丸跡の所で、カサカサと物音がする。
黒い動物の後ろ姿を見る。熊かたぬきか?    
帰りにお局屋敷跡に寄る予定だったが、・・・・  
あまりにビックリしたので、いっきに山を駆け下り
たのは言うまでもない。               





お市の里・滋賀県東浅井郡浅井町

長政は、信長の妹(於市の方)を室に迎えている。
信長は、長政を自刃させ、妹・於市の方と3人の娘
と嫡男を捕らえる。                   
3人の娘は、長女は淀殿(豊臣秀頼の生母)となる
於茶々、京極高次の正室となる於初、徳川秀忠の
正室となる於江(徳川家光の生母)である。    
浅井家の血脈は、娘達を通して、豊臣・徳川へと流
れ込むのである。                    
と言うことは、織田家の血脈は、於市の方と娘達を
通して、豊臣・徳川へ流れ込んだということか。  
そして、いとこ同士(豊臣秀頼と徳川家光)の戦い
とも言える関ケ原の戦い
へと続いていく。     
なんと難しいことか!                 

勝徳寺


浅井氏三代墓

滋賀県長浜市・勝徳寺
左から、長政公、亮政公、久政公。

小谷寺

東浅井郡湖北町伊部

浅井長政公之塚



小谷寺

養源院

京都市東山区

豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政の追善の為、
長政の二十一回忌に秀吉に願って養源院を建立し
長政の従弟で叡山の僧であった成伯法印を開山と
し、長政の院号を以って寺号としたのは文禄3年5月
(1594)である。その後程なく火災にあい、元和7年
(1621)徳川秀忠が夫人崇源院殿の願により伏見城
の遺構を移築したのが今の本堂である。以来徳川家
の菩提所となり、歴代将軍の位牌をまっている。

家族(長政とお市)



滋賀県

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