安藤守就


北方城

岐阜県本巣郡北方町

北方城は、伊賀太郎左衛門光就が築城し、居城した。
光就の曾孫安東伊賀守守就は斎藤氏の滅亡後、
織田信長に仕え、元亀元年(1570)6月の姉川の
合戦、翌年の長島一向一揆討伐に参戦して大功を
たてた。天正8年(1580)嫡子河渡城主尚就が甲斐
武田氏と内通したという嫌疑で信長の勘気を受けた
ので、守就は北方城を出て武儀郡谷口村(現関市)
に蟄居した。信長は守就の故領を収めて稲葉一鉄
に預けた。天正10年6月2日、織田信長が、京都
本能寺で、明智光秀に害せられると、守就は一族
旧臣を集め北方城に拠ったが、稲葉一鉄、貞道父子
に攻められて落城した。(これを北方合戦という)







谷口の里

法泉寺



春日局屋敷跡


岐阜県武儀郡芸川町谷口

甲斐武田氏の内通を織田信長に疑われた西美濃三人衆の一人・
安藤守就父子は天正8年、この地に閑居していたとされる。

さらに、1601年小早川家を致仕した稲葉正成がお福
(後の春日局)ら妻子とともに閑居したところでもある。


戦死の地

岐阜県本巣郡北方町



安藤伊賀守守就戦死の地
西美濃三人衆の随一といわれ、永正11年(1514)に
生まれ、天正10年(1582)に討死した。大職冠  藤原
鎌足公三代の後胤正二位内大臣魚名郷の末孫 
藤原朝臣伊賀守朝光の三男佐衛門尉光資をその祖
とし美濃本巣郡芝原北方七間の城主累代土岐・斎藤
両氏に属し、後に織田信長に仕える。元亀元庚午年
江州姉川の役及び信長尾州長島発向のとき殊功が
あった。天正8年嫡子河渡城主尚就が甲斐の武田側
と内通したと聞き信長の怒りに触れて領地を没収され、
武儀郡谷口村に蟄居を命ぜられ、領地は稲葉一鉄
義通に預けられた。天正10年6月2日信長公が京都
本能寺で明智光秀に討たれたため本領に立ち帰った。
これを聞いた稲葉一鉄との間に戦いが始まり、これが
北方合戦である。天正10年6月18日当千代ケ淵まで
落ち延びた守就は遂に力つきて、壮絶な戦死を遂げた。



宝光院

大垣市野口町

安東伊賀守守就
本巣郡北方城主。守就は明智光秀の討死後、
稲葉一鉄に攻められ滅ぶ。子孫の宿毛城主
(高知県)伊賀氏は彼の袴を宝光院に寄進。



龍峰寺

岐阜市雛倉








右側が安藤守就の墓。

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