その後の朝鮮外交


江戸時代、「朝鮮通信使」といわれる文化・外交
使節団が1618から1811までの間に12回、将軍
の祝いなどに日本を訪れている。毎回500名ほどの
使節団が半年から一年かけて江戸まで往来した。

雨森芳洲

滋賀県伊香郡(雨森芳洲庵)

雨森芳洲庵


1990年5月、来日した当時の韓国の蘆泰愚大統領は
宮中晩餐会の答礼の挨拶のなかで「270年前、朝鮮
との外交にたずさわった雨森芳洲は誠意と信義の
外交を信条としたと伝えられます・・・」と称賛。2002年
3月に訪韓した小泉純一郎首相は昼食会のスピーチ
で「誠信の交わり」の雨森芳洲のことばを紹介。


雨森芳洲が関わったのは第8回(1711)と
第9回(1719)の2回である。通信使に「耳塚」
を見せないようにと意見したという。

芳洲は、対馬のためと、朝鮮と日本のために、対馬、
朝鮮、江戸を舞台に活躍した国際人であった。

彦根道(朝鮮人街道)

彦根市

現滋賀県野洲市で中山道から分岐し、八幡・安土・
彦根を経由して、現・彦根市鳥居本で再び中山道に
合流した江戸時代の街道。徳川家康が関ヶ原の戦い
に勝利し凱旋した街道である。朝鮮通信使がこの街道
を通行したので朝鮮人街道と言われる。別名、京街道・
浜街道。朝鮮通信使の宿泊地は、彦根市の宗安寺で。

鳥居本宿の終わりに「左中山道右彦根道」という道標
のある追分がある。徳川家康が関ヶ原合戦後の上洛
に使ったことから「ご上洛道」の名もある。なぜこの区間
だけ別の道を通るようにしたことは分からないが、八幡
や彦根の方が経済の発展ぶりを外国に示すことができ、
大行列を受け入れる態勢も整えやすかったのではない
か、将軍上洛のみで参勤交代には通らせない特別な
道を、最大級のもてなしに使ったのかも知れない。

宗安寺






この玄関は江戸時代の建物で、朝鮮通信使や彦根
藩主はここを上がって書院奥の間に向った。

黒門


江戸時代、日本は李氏朝鮮と国交を開いており、
李王朝からも使者である通信使一行数百名は幕府へ
の往来途中この彦根に泊まり、特にこの宗安寺は、
この正使ら高官の宿泊所となった。この黒門は、その時
の御馳走搬入の勝手口に使われたと伝えられている。

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