明智左馬之助


明智左馬之助湖水渡りの碑


大津市

明智左馬之助湖水渡りのところ
天正10年(1582)6月2日、明智光秀は主君・織田
信長を本能寺に攻めて自害させ、天下を奪ったが、
山崎の合戦で秀吉に敗れ、その野望は消え失せた。
光秀の弟左馬助光春は、信長の居城・安土城を
攻めていたが、兄の死を聞いて急ぎ坂本城へ引き
返す途中、打出浜より路を湖水に求め愛馬にまたがり
びわ湖を渡り坂本に帰った。しかし、時すでに遅く、
秀吉の軍勢に囲まれ、6月14日、光秀の妻子らと
ともに、城と命運をともにした。湖水渡りの勇姿は、
今も講談などで語りつがれている。




天正十年六月十四日とある。






琵琶湖文化会館


また、明智左馬之助光春は、元々は、三宅氏。
その始祖は、南朝の忠臣児島高徳とか。


東広瀬城



豊田市東広瀬町

伝承では興国5年(1344)児島高徳が築城したといわれる。



随念寺

岡崎市門前町

1563年に家康が創建した楼門と白土塀の美しい寺で、
松平七代清康(家康の祖父)の妹・久子の墓がある。
久子は、家康が生母於大と生別して以来、家康を
養育した人。東海道を見下ろす丘陵に建てられた
一連の社寺の中でも、幕府の庇護が厚く、城の
防衛拠点としても名残りを、今もよく残している。




松平久子の娘は、遠山利景に嫁いでいる。
利景の兄は、明智光秀の娘婿の明智秀満である。


 伝えによれば、明智左馬之助光春(秀満)の
妾腹の子、太郎五郎が、近江国坂本城が
落城したため、土佐にのがれ、坂本城の地名、
坂本姓を名乗って帰農した後に四代目が酒
造業に転じた。やがて町人郷士となった。


明智光秀の妹が、母であるという斉藤利三
の妹は、土佐の長宗我部元親の妻である。


 坂本家十代、坂本権平の弟だった龍馬は、明智
につながる家系を誇りとして、桔梗紋をつけた。

 前にも述べましたが、むろんこの種の家系伝説
というのはほとんど付会説か作りばなしが多
いのですが、坂本家の紋が光秀の桔梗紋を継
いでいることを思うと、坂本家ではたてまえとしては
左馬助の子孫を称していたことを思うと不思議
でなりませんでした。付会説か作りばなしか
もしれません。しかし、江戸時代の末期におい
て、竜馬も、坂本家の紋が光秀の桔梗紋である
ことの意味するものを理解していたはずだと思
います。また、徳川幕府、諸藩も竜馬の桔梗の
紋の意味するところを分かっていたに違いありま
せん。特に、徳川家は、桔梗の紋の重さを理解し
ていたと思います。そして、歴史が動いていった。



坂本竜馬・中岡慎太郎像

(京都市東山区、円山公園内)

明智左馬之助駒止の松の碑

大津市柳が崎

駒止の松
この松は、明智光秀の女婿明智秀満(左馬助光春)
が、湖水渡りの馬を繋いだと言われている。
秀満は、天正10年(1582)「本能寺の変」のあと
安土城を守っていたが、光秀敗死の報に接し、
急ぎ坂本城に向った。その途中、打出浜から馬
に乗ったまま湖中に浮き沈みしながら柳が崎に
上陸し、この松に馬を繋ぎとめたという。








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