朝倉時代


明智光秀の邸宅跡、明智玉(細川ガラシャ)生誕の地
                 明智神社
      
           
       福井市東大味町

      

明智光秀は信長の部下となる前に朝倉家に仕官し、一乗谷朝倉館から京への大手筋
にあたるこの東大味地区に数年間住んでいた。

              一乗谷朝倉氏遺跡
      
                
福井市城戸ノ内町

1575年、信長の命を受けた柴田軍が越前一向一揆掃討作戦を指揮した時は、府中を中
心にすべての家を焼き払い数万の人々を皆殺しにしたという。
この様な悲惨な状況の中、光秀は自分がかって住み、家族が親しく過ごした東大味の住
民の安否を気遣い、この地を戦禍から逃れさせる為に柴田勝家・勝定兄弟に依頼し、この
地の住民の安堵状を出させたと推測されている。
当時の明智屋敷跡に住む3軒の農家は「生きているのは光秀様のおかげ」と光秀公の
秘仏(高さ13cm程の木彫りの座像)をひそかに数百年の間守り続け、ついに明治19年、
敷地内に祠(通称「あけっつぁま」)を建て秘仏を奉った。
                  墓石
     
光秀のものだという墓石には「理言久意信士天正十年六月十三日」という文字が認められる。
天正10年6月13日は、光秀の敗死の日である。

          

東大味歴史文化資料館
明智神社内に東大味歴史文化資料館がある。
館内のは明智光秀ゆかりの資料が展示してある。
     


      

     




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